第3の案の事例

自殺寸前までいった娘を、たった一晩で救った父親

私の知り合いに、夫婦と子ども三人の家族がある。あらゆる意味でごく普通の家庭だが、活き活きとして良い家庭である。娘と二人の息子の成長期、父親は出張が多かったものの、彼と子どもたちとの関係は会話が幾分少ない程度で、特に問題はなく健全だった。すべてが順調だった。ところが娘が十代になると学校で問題を起こし始め、ついには法律に触れることをした。

娘がトラブルを抱えるたびに、父親は時間に追われながらも、娘を心配し話し合おうとした。ただ、少しばかり性急だったかもしれない。ふたりの話し合いは、いつも堂々巡りするだけだった。「わたしは太りすぎているし、ブスなのよ」「そんなことない。私はおまえが美人だと思うよ」「父親なんだから、そう言うにきまってる」「私は本当ではないことは言わないよ」「そんなことない、言うよ」「おまえにウソをつくとでも思っているのかい?」 こうして、話は父親が正直かどうかという問題に移っていく。ある時は、彼は娘に自分の若い頃の話をしたりもした。僕はガリガリに痩せていて、皆に馬鹿にされていたんだよ、と。すると娘は「わたしならそのほうがマシ」と言うのだった。

状況が落ち着き、彼が出張で町を離れると、また同じサイクルが繰り返される。ある時出張先に妻から電話があった。娘がいなくなったというのだ。彼は半狂乱になって飛行機に乗り、家に帰った。家族はじりじりしながら捜索の行方を待った。ようやく別の都市の家出人保護施設で見つかり、両親が引き取りにいった。家に着くまで娘はずっと無言だった。優しい男である父親は、心底途方に暮れ、娘がどこにいるのかわからずどれほど心配したか、どれほど恐ろしい思いをしたか、胸の内を吐き出した。彼は娘に、若い頃はいろいろトラブルを抱えていたが立派な大人になった友人たちのことを話した。

その夜、彼と妻は娘のことを話し合った。「どうしたらいいか僕にはわからない」と彼はうなだれた。妻は「あの子の話を聴いてあげて」と言う。「どういう意味だい? 僕はいつも話を聴いている。家にいる時はいつもそうしている」

妻は中途半端な笑みを浮かべて言った。「あの子のところに行って話を聴いてあげるの。あなたが話しちゃだめ。黙って聴くのよ」 彼は娘の部屋に行き、腰をおろした。娘は黙ったままだ。彼は言った。「話してくれないか?」 娘は首を振る。彼はそれでも何も言わず、じっとしていた。だんだんと暗くなり、ようやく娘は口を開いた。「わたし、もう生きていたくない」

彼は愕然とした。娘に意見したい衝動をこらえ、「もう生きていたくないのか」と静かに言った。五分ほど沈黙が続いた。彼はのちに、あれは人生で最も長い五分だったと語っている。

「お父さん、わたし幸せじゃないのよ。自分の何もかもが嫌いなの。もう全部終わりにしたいのよ」

「おまえは全然幸せじゃないのか」彼は息を吐いた。

娘は泣き出した。しかし、ひどく泣きじゃくりながらも話そうとしていた。まるでダムが決壊したかのように、言葉が溢れ出てくる。娘は明け方まで話し続け、その間、彼は二言三言話しただけだった。翌日、明るい兆しが見えた。以前なら彼は娘に同情するだけだった。しかしついに、共感できたのである。

彼は初めて、娘に「心の空気」を送り込んだのだった。娘の苦しい青春時代はその後も数年続き、彼は何度となく「心の空気」を与えた。その娘もいまはもう落ち着いている。自信を持ち、自分に対する父親の愛情を確信するひとりの女性に成長した。彼は娘の心を探し出し、自分の現実を押しつけるのではなく、本人の胸の内から溢れ出てくるものを大切にすることで、娘が人生の基盤をしっかりと築けるように手助けしたのである。

第3案の事例

何百万人もの貧しい住民に、ほとんどお金をかけずに電気を供給したインドの若者

インドでは約半数の家に電気が通っていない。電気がないばかりに、何百万人もの人々が満足に教育を受けられず、職にも就けない。環境にも害を与えている。それこそ何百万もの世帯のかまどから出る煙が大気を汚染しているのである。電力を供給する方法については、何年も大論争が続いている。企業と環境保護 団体の闘い。都市部と農村部の利害の衝突。政治家同士の争い。世界の他の地域と同じように、二者択一思考が有意義な進歩の足かせになっている。

こうした二者択一の争いをよそに、バンガロールの若いエンジニア、ハリシュ・ハンデは第3の案を探した。「ほとんどコストをかけずに人々に電気を供給し、環境も守る方法はないだろうか? これまでだれも考えたことのない方法は何だろう?」と 自問したのである。

そしてハンデは、100%クリーンで、しかもほとんどコストのかからない電気を同胞のインド人に供給する方法を発見した。彼の会社であるセルコ・インディアはこれまでに、低価格の太陽光発電システム11万5千台を設置している。日雇い労働者でも零細事業者でも、小さな住宅なら十分に明かりがとれる40ワットのシステムを数百ドルで購入できる。顧客のほとんどが貧しいため、ハンデはクレジットで買えるシステムも用意している。こうして、子どもたちは灯油のランプではなくクリーンな電気の下で勉強できるようになった。停電に悩まされていた小さな縫製工場は、一日中ミシンを稼働できるようになった。家庭では、煙の出るかまどではなく、電気調理器が使われるようになった。若いタクシー運転手は、三輪タクシーにバッテリーを追加し、収入が倍増した。僻地の 村に街灯が設置され、治安がよくなった。ハリシュ・ハンデの第3の案は、インド南部の何千世帯もの人々の暮らしを変えている。

第3の案の事例

予算をかけずに高校の卒業率を30%から90%に、基礎学力レベルを3倍にした校長

リチャード・エスパルザは、情熱に突き動かされたリーダーである。エスパルザがワシントン州ヤキマ・バレーのグレンジャー高校の校長になった時、学校は絶望的な状況だった。ほとんどの生徒はマイノリティ層の子どもで、両親は教育を受けていない。貧困から抜け出す望みはほとんどなかった。生徒たちだけでなく、両親も教師も希望を見いだせないでいた。

エスパルザも貧しい家庭で育ったが、一生懸命に勉強して大学を卒業して教師となり、「他の子どもたちが本当の自分の姿を見られるようにする」ことを自らの使命として、故郷に戻ってきたのである。

校長に就任した彼は、この高校の生徒たちに対する世間の見方を変えることが自分の役割だと考えたが、生徒たちの学力は惨憺たるもので、不良グループが幅を利かせ、壁は落書きで覆われている状態からスタートした道のりは険しいものだった。

最初に取り組んだのは、非行グループのシンボルである落書きを消すことだった。用務員と彼自身で24時間以内に落書きの上からスプレーペンキを塗り続けた結果、2年後にはアーティストたちのやる気が失せ、校内から落書きは一掃された。

また、どんな学校においても、成功の鍵は親の支援と協力であるが、就任当時のグレンジャー高校では保護者会の出席率は10%足らずだった。エスパルザは教師に家庭訪問させ、生徒の学力について保護者と率直に話し合わせることにした。家族を説得して学校に関心を持たせ、保護者会に出席させることが目標だった。

家庭訪問を始めて数年後には成果が見え、最終的には保護者会の出席率は100%になった。保護者会の運営には生徒も参加し、学習の進歩状況、卒業条件、成績、読解レベル、卒業後の進路などを報告する。保護者会の目標は、生徒も親も教師も全員が同じ情報を得て同じ意見を持つことだった。

エスパルザはさらに、教育の「パーソナライズ」を重視して、生徒個々人が成功計画を立てられるようにした。生徒を20人ずつのグループに分け、各グループにアドバイザー役の教師を一人つけたのだ。教師は週に4日、受け持ちの生徒たちと面談し、個々人の進捗を確認する。生徒たちはアドバイザーに報告する義務があり、報告しないでいると、アドバイザーが家に電話するか、家まで行って事情を聴き、解決策を話し合うのだ。アドバイザーは生徒にとって相談できる人、信頼できる人であり、一人ひとりに目を向け、パーソナライズを重視した。このアドバイザーシステムは変革力を発揮した。

エスパルザは、あの手この手で生徒たちのやる気を引き出した。動機付けの効果的な手段が金だけではないことはわかっていたが、彼は42万ドルの贋金を詰めたスーツケースを見せることもあった。高校を卒業できなかったら、生涯賃金から減る額である。ひんぱんに開かれる「優等生集会」で、彼はこの象徴的な現金を壇上に置き、その隣には、「人生の3つの道」という手書きのポスターを貼ってある。高成績の生徒たちは高報酬の道、並の成績の生徒は並の報酬の道、低成績の生徒は低報酬の道である。彼は生徒たちに現実を突きつけていたのだ。教育が貧困から抜け出す唯一のチャンスだとして、優等生に賞状と副賞を授与した。

遅刻や早退は当たり前だったグレンジャー高校では、欠席率が大きな問題になっていた。エスパルザは、授業を休んだ生徒が学校にどれだけ時間の「借金」があるか一目でわかるスコアボードを正門にかけた。「借金」をしたら、始業前か放課後にチューターと面談し、休んだ時間を返済しなければならない。この方法が功を奏し、2年間で欠席率は30%減少した。

すべての生徒を学業で成功させる決意で臨んでいたエスパルザは、大胆にも「落ちこぼれゼロ・ルール」を掲げた。アドバイザーは成績不振の生徒の苦手分野を毎日指導した。生徒たちは、C以上の成績をとれるまで試験や小テストを何度も受けた。一人として落ちこぼれることは許されなかったのである。

こうした取り組みの結果、エスパルザが校長に赴任した時に30%前後をさまよっていた卒業率が、5年後には90%に達した。生徒の読解力スコア、数学、筆記の学力達成度も約3倍に上昇した。満足に読めない状態でグレンジャー高校に入学した生徒でも、卒業する時には大学に進学できる学力をつけていた。

後任の校長によれば、周辺の市町村に住む親から、子どもをグレンジャー高校で学ばせたいと、願書が山のように届くという。その多くは教育を受けていない低所得層である。犯罪率が大幅に減少したこともグレンジャー高校の変革から生まれた大きな副産物である。

リチャード・エスパルザは、第3の案の教育者と呼ぶにふさわしい実例である。日和見的な役人となり、変革できないのは社会、親、教師の組合、果ては法律のせいだと言い、恨みがましく校長室にただ座っていることもできただろう。あるいはここを去り、システムをそっくり捨てたほうがいいとする批判の大合唱に加わることもできただろう。

しかしそうはせず、第3の案を探すことを選んだ。彼は自分がいる場所で物語を変えることを選んだのだ。教育を巡る社会・経済・政治の間の大論争が解決策を出すのを待ちはしなかった。生徒一人ひとりが世界に貢献できる独自の天賦の才を持っているのだと信じ、失敗の統計を増やすだけだとけっして考えなかった。ギャングという歪んだ成功像を消し去り、新しい成功像を示して見せた。それは、努力、忍耐、達成に与えられる豊かさ、第一の成功である。希望を持てずにいた家庭に希望をもたらした。

教育制度に問題があることはエスパルザにもわかっている。だが彼は、教育に関しては制度そのものが問題なのではないことを証明した。問題はマインドセットである。「私にはできない。お金やリソースが足りない。だれも協力するはずがない」このような諦めにも似たことを言っていたら、その通りになるだろう。

しかし、エスパルザと彼のチームは、現行の制度であっても偉業は成し遂げられるという皮肉な現実を見せつけたのだ。パラダイムが間違っていたら、どんな制度にしたところでうまくいかない。本当に問うべきは、私たちがシナジーのパラダイムを持っているかどうかである。

第3の案の事例

米国史上最大の環境訴訟を、法廷に足を踏み入れるまでもなく解決した判事

コヴィー博士の古くからの友人で、合衆国地区裁判所判事のラリー・M.ボイルは、連邦裁判所の同僚からの依頼で、彼らが担当するケースの調停を司法面で監督している。その連邦区では、判事が持ち回りで和解協議を行う。ラリーはできる限り、和解協議や裁判ではトーキング・スティックのコミュニケーションを取り入れるようにしている。当事者同士が敵対から共感と理解に変化していくのは、方法論的なプロセスと言える。

紛争の当事者全員が、自分の言いたいことを聴いてもらえたと感じたら、ラリーは両者に成功基準と失敗基準を書き出してもらう。紙に縦線を一本引き、「左側の欄には、どうなれば満足できるのか、つまり判事があなたに有利な判決を下す理由を書いてください。右側の欄には、どうなれば満足できないのか、つまり判事があなたに不利な判決を下す理由を書いてください」と指示する。さらにラリーは、「第3の案」という言葉は使わないものの、当事者双方に第3の案のプロトタイプを作成させる。いちばん上に「和解計画」と書いた紙を渡し、各々に計画を書かせる。3つか4四つの素案ができることもある。この手法を使うと、たいていは和解に達する。当事者も弁護士も計画の良い点と悪い点を十分に吟味し、創造性を発揮して、理にかなった和解案に落ち着くからである。ラリーが担当したなかでも最も込み入った裁判の一つ、ブラックバード鉱山裁判でも、第3の案を探すプロセスを使った。

アイダホ州の山岳地帯にある古いブラックバード鉱山は、米国で唯一のコバルト産地だった。冷戦時代、コバルトは戦略的に極めて重要な金属であり、1950年代から60年代にかけて鉱山労働者たちは猛烈に働いた。1970年代に鉱山が閉鎖されると、酸性の金属毒物の流れが、土壌や水域、美しいサーモン川の生態系に著しい害を与えた。その後、まるでドミノ倒しのように、州、環境保護団体、連邦機関が鉱山所有者を訴え、双方が有害物質の洗浄作業を押しつけ合った。提訴、反訴が雪崩のように押し寄せた。

ラリーが調停に入る頃には、すでに10年以上が法廷で費やされていた。問題の洗浄費用は6000万ドルを超え、だれも負担しようとはしなかった。当事者の意見対立が激しく、和解の試みはことごとく失敗していた。ファイルは何千ページにも増え、多数の申し立てが未決のままだった。数百の証拠が提出され、数十人の専門家証人が証言するため審理は数ヵ月を要する見通しで、その後何年にもわたり上訴が繰り返されることが予想された。「司法制度の袋小路」のなかで状況は混乱の極みを呈していた。

ラリーは同僚から、この複雑な事件を解決しようと思わなくていいと助言を受けた。「解決は無理だ。君は周辺的な問題でいくつか和解を成立させてくればいい。その後の裁判が進めやすくなるだろうから」 しかしラリーは、第3の案のアプローチを試してみることにした。

陪審員だけでも大勢いた満員の法廷で当事者全員と会ったあと、ラリーは休廷することにした。双方の関係者を別室に入れ、双方の弁護団長を私の部屋に呼んだ。「おふたりとも本件の事実関係は承知し、お互いの主張も知り尽くしているはずです。そこで、これからそれぞれのグループで和解案を考えていただきたいのです。2時間後にだれか職員を行かせますから、まとめておいてください」

この要求に双方の弁護士は驚き、部屋に戻って、イーゼルパッドに和解案をスケッチし始めた。ラリーは話し合いの様子を見てまわった。どんな案なのか知りたかったからではなく、グループのリーダー役、第3の案を探す考え方を持った人物を見つけたかったからだ。そして、ジョン・コープランド・ネーグルに白羽の矢を立てた。後にノートルダム・ロースクール研究副学長となる人物である。敏腕の弁護士で法学教授でもあるネーグルは、アメリカの環境法に関する本も書いていた。だがラリーが最も着目したのは、彼が極めて有能でありながあら威圧的なところのない人物であり、そして直観的なリーダーだったことである。ラリーはネーグルに、和解案ができるまで当事者と自分の連絡役になってくれるよう頼んだ。しかしラリーは、ネーグルが天性のリーダーシップを発揮し、解決策を生み出してくれることを内心期待していた。彼がラリーのところに「A案です」と言って和解案を持ってきたら、全員でシナジーを起こし、Aよりも良い解決策に発展させるつもりだった。両方のチームがいっしょになって解決策を練り始めると、案の定、だれもがその解決策を自分のものとしてとらえるようになった。押し付けられた解決策だったら、そうはいかない。自分たちで生み出す第3の案だからこそ、前向きに取り組めるのである。

それから数週間後に一回、数ヵ月間にもう一回、弁護士を交えて当事者双方と会合を持った。回を追うごとに、単に問題点を狭めるのではなく、完全な解決策に近づいていった。全員が第3の案を探すマインドセットを持ち、協力して取り組んだからである。

それまで10年も続いた法廷闘争が数ヵ月で解決し、大勢の陪審員も劇的な裁判も不要になった。センセーショナルなメディアの報道もない。当事者双方が責任を分担し、環境に与えたダメージを修復する作業に取り掛かった。ブラックバード鉱山のケースは、短期間で合意に達したサクセスストーリーである。大規模な環境訴訟で迅速かつ効率的な回復を最優先した和解は、これが初めだった。エクソンバルディーズ号原油流出事故以前では歴史上最大規模の環境浄化作業が進められ、それからまもなくして、ブラックバード鉱山によって汚染された川にサケが戻ってきた。

和解に達しなかったなら、連邦判事による裁判が行われていただろう。同じ法廷で何年も責任の押しつけ合いが続き、それぞれが相手の非道ぶりを述べたてていたことだろう。訴訟費用は何百万ドルにものぼっていたはずだ。裁判を進め判決までこぎつけるまでに判事が長い時間と相当な労力を使った挙句、判決が下されても上訴審で最初からやり直すことになり、その間も汚染は残ったままだっただろう。ラリーは、これを防ぐためにできるとはすべてやる選択をし、第3の案を創造する原則の力を動かした。和解という結果はラリーが生み出したものではない。第3の案を創造するプロセスによって、あの有能な弁護士たちの内面に眠っていた創造力が解き放たれたからである。

第3の案の事例

ほとんど口もきかず冷え切っていた日々を笑い飛ばせるまでになった夫婦

ある夫婦は、子どもを自動車事故で亡くした。その時に車を運転していたのは奥さんだった。奥さんの絶望と罪悪感があまりに強く、夫は長い間、妻との間に深い溝ができたように感じていた。彼は喪失感にとらわれ、そのような時に男が一般的にとる行動をとった。自分の感情を抑え、仕事に精を出したのだ。彼女はそんな夫を冷酷だと思っていた。同じ屋根の下に住み続けていながら、お互いを恨み、心は離れる一方だった。誤解はどんどん深くなっていった。

そんな状況が、ある時を境に変化し始める。冷え切った生活が長く続いたあと、夫が寝室のドアの前をたまたま通った時、妻がベッドにじっと正座しているのが見えた。結婚したばかりの頃の彼女の姿が思い浮かび、彼女が自分にとってどんなに大事な存在か、彼女の悲しみは自分にとっても耐え難いものであることがわかったのである。妻をどうやって慰めればよいかわからず、彼はそばに座っていてやることしかできなかった。彼女は身をよじって彼から離れたが、彼は動かなかった。1時間かそこら、ふたりは一言もしゃべらず座っていた。ようやく彼女が「寝る時間よ」とつぶやいた。ふたりは眠った。この場面が毎晩繰り返された。何も言わずとも、夫婦は二人の間に共感が育っていくのを感じていた。そしてある晩、妻は夫の手をとった。

あれから何年も経ったいま、二人は本当に仲睦まじい夫婦である。転換点は、夫に思いやりの気持ちが生まれ、妻が彼に背を向けても、いつものような反応はしないと決めた夜だった。私の悲しみとあなたの悲しみに代わる第3の案―私たちの悲しみ―に向かおうとするほんのわずかな仕草が、二人の結婚生活をより良い道に乗せた。興味深いことに、二人はいまでも、過酷な試練から互いに学んだことを話し合うという。彼は、自分が悲しみを抑えていたことが妻を困惑させ、怒らせていただけでなく、自分自身を慢性的なうつ状態にしていたことに気づいた。彼は自分の悲しみを認め、表に出すべきだったのだ。そして彼女のほうは、仕事に復帰することが自分のためになり、社会の一員として貢献している意識を再び持てることを彼から学んだ。二人の悲しみ方の違いは互いに与え合う贈物となり、より強い絆で結ばれた夫婦となったのである。

第3の案の事例

一般的な治療費の何分の一かで重篤の患者を治療する医師

フロリダ州のタンパ総合病院ノーマン甲状腺クリニックには、世界中から患者がやってくる。火曜日の朝5時に13人の患者を受付のスタッフが笑顔で迎え、正午までに全員の手術が無事に終了する。彼らの病気は副甲状腺機能亢進症といい、珍しい病気ではない。人間には米粒大の副甲状腺が4つあり、これよりもずっと大きな甲状腺に隣接し、血液中のカルシウム量をコントロールしている。これらの一つが正常に機能しなくなると身体は骨の中のカルシウムを血液中に放出させ、骨量の減少、身体中の痛み、鬱、疲労などの症状が表れる。治療しないと、身体が衰弱し、心臓発作や癌を引き起こす危険性がある。

この病気を発症するのは1000人に1人の割合である。原因は不明だが、治療はごく単純で、副甲状腺を除去すればいい。数時間で患者のホルモン量は正常に戻り、残った3つの副甲状腺がなくなった分を補う。

治療は単純だと言ったが、副甲状腺は首にあるため、外科医は、頸動脈、喉頭、喉頭神経、その他の複雑で繊細な器官を傷つけないように注意しなければならない。そのため副甲状腺摘出術は大手術とみなされる。手術は通常、前頸部大きく切開し、所要時間は平均3時間である。数日の入院が必要で、回復には数週間かかる。典型的な手順は1920年代からほとんど変わっていない。治癒率は88〜94%で、合併症は5%と報告されている。米国の場合だと治療におよそ3万ドルの費用がかかる。

しかしノーマン・クリニックでは、患者が手術室にいる時間は平均16分、数時間後には病院を後にする。喉元にわずか数インチの切開痕しか残らない。治癒率は99.4%、合併症はほぼゼロである。しかも一般的な費用の3分の1ですむ。ノーマン甲状腺クリニックの創設者であるジム・ノーマンは、週に42件、過去に1万4千件以上もの副甲状腺摘出術を手掛けている。過去に遡ってもこれは圧倒的件数であり、名医中の名医と言っていい。

ノーマン博士はある日、自動車のセールスマンをしていた父に、頸動脈や神経の近くに直径6〜8インチの穴をあけて小さい副甲状腺を摘出するのは合併症の危険もあって、おそろしく大変だと愚痴をこぼした。 それに対して父親が言った「穴をもっと小さくすればいいじゃないか」という一言がまさにアイデアの種になった。それから数年間、ノーマンは切開創を小さくしていき、放射性プローブなど新しいツールを考案し、極小侵襲副甲状腺摘出術(手術に伴う痛みなどの外部刺激を極力なくして副甲状腺を摘出する手術)というまったく新しい方法を開発した。焦点を絞り込み、何度も繰り返し、何千時間もの経験を積み、ジム・ノーマンは副甲状腺摘出術において世界最高の外科医となり、侵襲性が最も少なく、最も短時間でできる技術を確立した。

それと同時に、注目に値する新しいビジネスモデルも考案した。彼の周りにいるスタッフはみな副甲状腺摘出術のエキスパートである。採用した数人の外科医はノーマンに匹敵する力をつけつつある。レントゲン技師は年間2000件以上のスキャンを行うので、精度が向上する。看護師は毎日同じ手順を繰り返すことによって第六感が働くようになり、手術から30分〜1時間後には、患者を見れば良くなっているかどうかわかる。医師が看護師に指示しなければならないことはほとんどない。スタッフは日ごろから「患者の体験を改善するにはどうしたらよいか」と考えている。

ノーマン・クリニックはシナジーにあふれている。評判と共に患者は世界じゅうからくるようになり、宿泊場所が必要になる。たいていはタンパに着いた翌日に手術を受け、その次の日に帰宅する。そこでクリニックは、近くのホテルと大幅な割引契約をし、空港や病院まで自動車での送迎サービスも用意している。ホテルのスタッフはこれらのゲストにカルシウム剤といった特別な配慮が要ることをよく知っている。

ノーマン・クリニックとタンパ総合病院は、驚くほどのシナジーを起こしている。手術件数の多さは、収益は言うまでもなく、効率性の点でもずば抜けている。クリニックには手術室が二つしかなく、したがって手術室の収益率は極めて高い。回復室は不要だ。病院で一晩過ごした患者は、これまで4000人のうちたった一人である。予測の精度も高い。レントゲン技師も麻酔医も何を予測すべきか正確にわかっている。「ほとんどの患者さんは旅費を払ってタンパまでやってきます。しかし一般的な侵襲手術は時間がかかり、合併症のリスクもあります。入院で節約できる金額も考えれば、当クリニックのように専門能力の高い医療機関まで来るほうがはるかに安上がりです。うちの患者さんが負担する費用は、この手術の平均的な費用よりもずっと安いですよ」とクリニックのビジネス・マネージャーであるマーク・レーサムは話している。

ノーマン・クリニックの節約戦略は、患者がタンパに来る前から始まっている。情報を満載したウェブサイトは維持費が安く、これを使って世界じゅうの患者とコミュニケーションをとり、トレーニングを提供する。サイトのデザインはごくシンプルで、情報はすべて平易な英語で書いてある。手術のビデオもあり、手術を受けた患者の感想や詩を読むこともできる。患者の居住地を表示した世界地図まである。インターネットで患者を教育し、記録を処理することで、時間と金を大幅に節約できるのである。

要するに、ジム・ノーマン博士は、どの医療機関よりもはるかに安い料金でワールドクラスのサービスを患者に提供しているのだ。「医療業界全体がこのクリニックに気づけば、業界もずっと改善するでしょう」とレーサムは言う。「うちのクリニックは多くの記事で取り上げられ、講演も多数行い、実績はいたるところで紹介されています。それなのにだれも真似しようとしない。どういうわけかだれもやろうとしないのです」

もちろん、「だれも真似しようとしない」理由は明らかである。医療を巡る議論は二者択一のイデオロギーに支配され、第3の案、すなわち劇的に安い料金で質の高い治療を受けられる方法があるかもしれないとだれも言い出さないのである。第3の案は何が何でも必要だ。タンパ総合病院ノーマン・クリニック、その周辺のホテル、患者自身が実現している多くのシナジーを考えてみてほしい。それらの力が相まって、実際にコストを下げ、クォリティを上げているではないか。

第3の案の事例

暴力と堕落の温床だったタイムズ・スクエアを北米きっての観光スポットに変身させたチーム

ニューヨーク市のブロードウェイと42番街の交差点、タイムズ・スクエアはニューヨークの心臓部、あるいは世界の中心と呼ばれるにふさわしいスポットだ。100年前には世界じゅうの演劇ファンを引きつけていたブロードウェイだが、1970年代には「社会的堕落が凝縮された場所」となり果て、財政的にも道徳的にも破綻し、内側から外側へ死につつある大都市の象徴となった。

現在、そのような荒廃の痕跡は残っていない。社会悪の象徴だったタイムズ・スクエアが、多くの人々によって生まれるシナジーの力の素晴らしさというまったく別の象徴として輝きを取り戻したのだ。

タイムズ・スクエアの再生には大勢の人々が貢献しているが、最初に弾みをつけたのはハーブ・スターツという人物である。記者や豊富な地域社会活動を通して第3の案を見つけてきた長年の経験から、真になすべきことを実現するための革新的なシステムを構築する手腕を発揮した。彼の最大の強みは、二極化の世界で第3の案を見出せることだった。1979年にスターツはニューヨーク副市長になり、荒廃していた「タイムズ・スクエアに夢を取り戻し、厳しい現実と入れ替える」という具体的な目標を掲げた。

市が、一帯を取り壊し、4棟の新しい高層ビルを建てるというタイムズ・スクエア再建計画を発表すると批判が噴出した。不動者オーナー、企業、環境保護活動家も、そしてスターツ自身も無個性のオフィス街がもう一つできるだけだとして計画に異を唱えた。

多方面から上がった反対の声のなかで鍵を握っていたのは、シーモア・ダーストだった。彼はタイムズ・スクエア周辺に多数の不動産を所有するが、タイムズ・スクエアの投資を促す公的資金も拒否するほど政府の支出をひどく嫌悪する人物だ。

この大混乱のなかに飛び込んだのは、経験豊富な都市プランナー、レベッカ・ロバートソンだった。ハーブ・スターツにスカウトされ、再開発プロジェクトのトップとなり、将来のニューヨークの新しい心臓部を創造するために、市の有力者たちとその支持者の力を一つにまとめる挑戦が始まった。

まず、ロバートソンは市の計画を白紙に戻し、関係者全員に質問した。「一歩進んで、これまでだれも考えたことのないものを生み出そうという人はいますか?」と問いかけた。これは、第3の案を探すための絶対条件だ。

ニューヨークの新しい将来像を話し合う「魔術劇場」では、都市プランナーや民間開発業者、環境保護活動家、著名なデベロッパー、レストランオーナー、手ごわいダースト一族、演劇興行主など、あらゆる分野の人々の意見が歓迎された。新しいパラダイム、第3の案が人々の頭のなかで徐々にかたちをなしていき、人々はやがて「42番街が単なる都市病理の一例ではなく、深刻な荒廃の危機にある娯楽の聖地」であることに気づいた。タイムズ・スクエアの娯楽の歴史をふまえた新しいプロトタイプは、メディアの中心地となり、「年間2000万人の大勢の観光客、39の劇場、750万人の観客、通勤者は一日20万人……まさに人々が賑やかに行き交うニューヨーク最大の観光市場」となることだった。

現在の新生タイムズ・スクエアは興奮と活気に満ちている。毎日、通りは歩行者でいっぱいで、巨大なデジタル掲示板が夜空を照らし、劇場群が最高のショーを上演している。1980年の大晦日に集まった人は5万人程度だったが、いまでは100万人が集まる。

シナジーのプロセスを振り返り、タイムズ・スクエア再生から得られる教訓を考えてみよう。まず、ハーブ・スターツが辛抱強く、複雑に絡み合った対立を超越したことが再開発プロジェクトを成功に導いたといっても過言ではない。第3の案を幅広く受け入れる彼の姿勢は徐々に周囲に広まり、市当局の幹部は、スクエアをビジネス街にするという当初の一大計画、莫大な投資が無駄になることは目に見えていた計画を白紙に戻す決断を下した。何年も法廷で争っていたレベッカ・ロバートソンとダグラス・ダーストにとって、お互いに考えたことのない第3の案をいっしょに見出すには、強い気持ちが必要だった。幸い、それまでふたりとも取り組んだことのない新しいビジョンに魅せられ、自分の先入観と傷ついた感情を徐々に捨てることができたのである。

共通の成功基準を定めたことで、タイムズ・スクエア再生計画の関係者全員が、地区の将来像と最も要望する事柄を述べることができた。成功基準は次のようなものである。

これらの希望が実現しただけでなく、それ以上のものがもたらされたことは、タイムズ・スクエアを訪れる大勢の人々を見ればわかるだろう。

ダグラス・ダーストはタイムズ・スクエア四番地にビルを建設する計画を立てた。市民は無個性なビルが増えるだけではないかと心配したが、彼が雇ったフォックス&ファウル建築事務所は、タイムズ・スクエアの多くの利害関係者の話を注意深く聴き、独自の成功基準を積み上げた。両極端の文化的要求「ビジネス街VS米国の娯楽の中心地に期待されるアイコン性」を中心にしてシナジーを生まなくてはならない。そして完成した48階建ての高層ビルは、シナジーを象徴するモニュメントであり、多種多様なスタイルが組み合わされ、見事に調和している。だが最も興味を引く特徴は、超高層ビルとしては初めての「グリーン」ビルであること。48階分の消費電力を極力抑え、上から19階分の壁面に太陽光パネルが貼られ、他のビルよりもクリーンな空気を排出するのだ。

リニューアルから数十年が経った現在も、タイムズ・スクエアは米国の人気観光スポットである。企業は2万4千人の雇用を創出し、ニューヨーク市に新たに4億ドルの税収をもたらしている。ニューヨークの「ワースト・ブロック」と呼ばれていたタイムズ・スクエアの重大犯罪率は激減し、いまでは治安のよい「ベスト・ブロック」の一つである。

タイムズ・スクエアの再生は、社会を変えるために必要な意志、自制心、人格を備えた人々の物語である。「最低を最高にする」仕事を彼らは成し遂げた。超保守的な実業家、リベラル派の地域活動家、環境保護活動家、銀行家、興行主、レストランオーナーなど実に多様な顔ぶれが参加し、これらの民間企業家と公務員がパートナーシップを組んでプロジェクトを進めた。政府を支持する人も反対の人もいた。しかし結局、従来のリベラル派VS保守派のイデオロギー対立はほとんど何の役にも立たなかった。やがてシナジーの精神が全員に浸透し、彼らの多様な考え方が一つの堅固なビジョンにまとまったのである。

第3の案の事例

カナダのある大都市の犯罪率を半減させた警察署長

カナダに限らず世界じゅうどこであっても、犯罪に対する答えは犯人を捕まえる法的処罰だけではない。本当になすべきことは、信頼と共感による強い関係に基づく市民社会の構築である。それには第3の案を探す考え方が必要だ。その例として王立カナダ騎馬警察で「平和の維持」が第一の使命であるワード・クラパムという人物を紹介しよう。

ワード・クラパムはそのキャリアを通して、第3の案によってさまざまな事前対策を講じ、住民も上司も驚かせた。例えば、路上でホッケーをして交通を妨げていた若者たちを取り締まるのではなく一緒にホッケーをしたり、常習的に未成年者にタバコを販売して摘発された商店主に対しては、店で禁煙講習を開いたら執行猶予にするというものもあった。

同時多発テロが起こった2011年9月11日の数日後、クラパムは王立カナダ騎馬警察リッチモンド署の署長となった。そこで彼が目にしたのは、悪者を捕まえ、非行少年を通りから追い払うという典型的な都市警察署の姿だった。犯罪を未然に防ぐために住民と関係を築くようなことは何も行われていなかった。大きな挑戦だが、クラパムは警察署のマインドセットを変え、仲間の警察官たちと共に新しい文化を創る決意を固めた。クラパムは、第3の案を活用して犯罪を未然に防ぎ、そして犯罪が起こった後は、それ以上の犯罪を防ぐために、シナジーを生む新しいアイデアを果敢に追求したのである。

だれも考えたことのない方法、第3の案を探すクラパムのマインドセットが、二者択一思考の人たちの激しい抵抗を招くことも多々あった。しかし、「強硬VS柔軟」のジレンマは、ワード・クラパムにしてみれば何の意味もなかった。彼は、年8万件の犯罪数を減らすためにできることは何でも成功なのだと考えていたのだ。

第3の案を求めるクラパムの姿勢から、「ポジティブ・チケット」というアイデアが生まれた。少年少女の悪い行いに違反切符を切るのではなく、彼らの良い行いに対して切符を切るというもので、まさにカウンタータイプのアイデアだ。ポジティブ・チケットには「あなたは良い行いをしたので逮捕されました!」と書いてある。 地元企業や自治体の協力で、チケットはピザから携帯ミュージックプレーヤーまで、あらゆる景品と引き換えられる。

リッチモンド署は、良い行いをした若者に毎年平均4万枚のポジティブ・チケットを切っている。きちんとヘルメットをかぶってバイクに乗っている少年にも、通りでタバコを吸わず、悪態をつかない少女たちにも、ポジティブ・チケットを渡す。微妙な年頃の子どもたちも、どんなに些細なことでも褒められれば、きっと大きな善行につながるのだ。これによりコミュニティは変わった。かつてはほとんどの若者は警察を避けていたが、今では警官を見ると走り寄ってくるようになった。若者たちはもう警察官を恐れて背を向けるのではなく、警察官と話しをするようになり、関係が築かれている。警察官は血も涙もない法執行者ではなく、成長期の難しい早瀬をうまく乗り切れるように手助けをする友人なのである。

ワード・クラパムと彼のチームは、対立を未然に防ぐ人間関係を築くために、ポジティブ・チケットの他にも、シナジーを生む多くのアイデアを取り入れた。各警察官が学校を一校ずつ担当し、その学校の生徒たちと友だちになること、警察官が子どもたちに本格的なスポーツ体験をさせる「オンサイド」プログラムというものも始めた。

リッチモンド警察の頭痛の種だった高速のストリートレースには、強制的に止めさせる警察のやり方ではなく、ミニクーパーをパトカーに改造し、いちばん目立つように飾りたてるという彼らの流儀で対抗した。若者たちと接点を持ち信頼関係ができると、公道でレースすることがいかに危険か対話できるようになり、死亡事故はなくなった。

若者たちの力になろうとする署員たちの熱意に心打たれたクラパムは、部下に対してもポジティブ・チケットのような報奨制度を導入し、若者を支援する活動で顕著な貢献をした署員に報いる体制に改造した。クラパムは昇進体系を一新して、青少年課を花形にし、そこに配属されるのは大出世であり、厳しい選抜プロセスを経なければならないようにした。

また、クラパムが重視したのは、犯罪者を社会に復帰させ、再犯を防ぐ活動で、王立カナダ騎馬警察は、リッチモンド修復的司法プログラムの設置に協力した。刑務所に行くのではなく、被害者、証人、警察官に会い、ファシリテイターの協力を得ながら、罪をどのように償うか関係者全員と合意を結ぶ。これは共感的傾聴を行う場であり、若者は自分が他者にしたことを理解し、そしてその相手に自分を理解してもらうのだ。

リッチモンド署が抜群の成果をあげていることは、多くのデータが裏づけている。

2010年冬季オリンピック開始前の数ヵ月間、バンクーバー周辺は暴力事件が多発したがリッチモンド市内は平穏そのものだった。王立カナダ騎馬警察リッチモンド署は10年間で市を変革していたのである。

私がワード・クラパムから学んだことを話そう。彼は「自分自身を見る」パラダイムを完全に身につけている。騎馬警察に入った当初から、自分は指示されて従来どおりに警察活動を行う機械ではないと自覚していた。大きな貢献をしたいという創造的な欲求が湧いてくるのを感じていた。自分は「ハンター」や「法執行者」ではなく、「平和を維持する者」だと思っていた。犯罪のある将来であってはならない、犯罪によって人生が壊れてはならない、と告げる彼の良心にじっと耳を傾けたのだ。

彼は「あなたを見る」パラダイムに従って生きている。クラパムが接する青少年犯罪者は、一人ひとりの個人であり、彼らを知って友達になりたいと思っている。彼にとってチームのメンバーは部下ではなく、独自の天賦の才を発揮できる有能な個人である。クラパムにとって犯罪をなくす解決策は、人間同士の深い信頼関係を築くことに他ならない。

彼は「あなたの考えを求める」パラダイムを実践している。彼ほど大勢の人たちからこれほど貪欲にアイデアを得ようとする人を私は他に知らない。職場では毎日違う椅子に座り、質問し、話し合い、全員からアイデアを引き出す。広くコミュニティの人々にも考えを聞いてまわる。優れた人々から学ぶために、よく本を読み、旅をする。

彼は「あなたとシナジーを起こす」原則を信じている。チームや市とシナジーを起こすことによって、平和維持という難しい問題に前例のない第3の案による解決策をいくつも考え出した。その結果、平和な未来などほとんど想像できなかったコミュニティに、彼の努力によって平和世代が生まれつつある。

「悪の枝葉に斧を向ける者は千人いても、根っこに斧を向ける者は一人しかいない」ソローのこの洞察は、二者択一思考の行き着く先をとらえている。「犯罪に強硬な態度」の人々は、悪の枝葉に斧を向ければ満足する。「犯罪に柔軟な態度」の人々は、枝葉を見て見ぬふりをしていることに罪悪感を覚えるのだろうが、結局は根っこのところで犯罪を生む大きな社会問題を解決しない限り何もできないのだと言う。

だが、ソローに尋ねることができるなら、枝葉にも注意を向けることは必要だと答えるのではないだろうか。だから私は、ワード・クラパムという人物に感服するのである。社会悪が犯罪を生んでいることは彼も十分わかっているが、社会悪がなくなるまで待ってはいられないのだ。かといって、強硬な手段に出て、問題のある若者たちをゴミ扱いすることなどできない。彼は第3の案を探す人物であり、根と枝葉の両方で問題に取り組むのである。

第3の案の事例

ニューヨークの汚れた港湾を、ほとんど費用をかけずに生き返らせた女性

私がシナジーのマインドセットを身につけていれば、安易な二者択一を超えて考えるだろう。ピーター・コーニングも言っているように、シナジーに到達するには「厳密で、統制がとれ、退屈でさえある作業」が必要なこともわかっている。「シナジーは、技術革新中毒の衝動的で拙速な文化を逆なでするようなものである」第3の案のためには、代償を支払わなければならないのである。

深く考えず衝動で行動する人たちは、いつもだれかを攻撃している。ニューヨーク市の過激な環境保護主義者たちは、「ビッグマネー資本主義」の強欲が不健全に都市を拡大し、ニューヨーク港を海の砂漠にしたとして、怒りをぶつけている。それに対して厚顔な実務家がやり返す。「君らは我々に何をしてほしいんだ? マンハッタンを解体してインディアンに返すことか?」 どちらのグループも相手を尊重せず、共感せず、自制もしていない。シナジーに向かうために必要なことを身につけていないのである。

だが、環境を守ろうとする情熱とビジネスのノウハウを結びつけられれば、ものすごい第3の案が生まれる可能性がある。オーストラリアの環境保護活動家ナタリー・ジェレミジェンコは、歩くシナジーだ。彼女はニューヨーク市を都会のエコパラダイスにしようとしている。もちろん、解体などせずに。航空宇宙工学、生物化学、神経科学、物理学を学ぶジェレミジェンコは、これらの学問分野から得た洞察を活かし、大きな変化を起こす小さなプロジェクトを進めている。

ニューヨーク港は大都市の汚染で長年にわたって痛めつけられている。港湾と下水道を完全に隔離するために多くの措置が講じられてきたが、それでも雨が降ると、大量のカドミウム、漏れたガソリンやディーゼル燃料などの神経毒、何百万台もの自動車のブレーキから出るダストが通りを流れて海に注ぐ。ニューヨークのアスファルトをそっくり剥がす以外、港湾の汚染を食い止める手立てはない。だが、ジェレミジェンコがいれば話は別だ。

彼女のアイデアは、市内にあるすべての消火栓の周囲に小さな庭をつくるというものである。植物は溝をつたってくる雨水から有毒物質をろ過する。市内にきれいな庭が点在するのだから、景観美化にもなる。消火栓のそばにたまに駐車する消防車が植物を踏みつぶすことはあるだろうが、それだってすぐに元通りにできる。これがどのようにして大きな変化をもたらすのだろうか? ニューヨークには約25万個の消火栓がある。そのすべてに小さな庭ができたら、大量のろ過システムになるではないか。

ひどいことに、入江に棲息する海洋生物は、多くの工場から出るPCB(ポリ塩化ビフェニル)で汚染されている。そこでジェレミジェンコは、沿岸に蛍光ブイを浮かべた。魚がそのあたりを泳ぐと点滅する仕掛けだ。点滅したら、解毒剤を配合した餌を与える。

空気をフィルターに通して二酸化炭素から炭素を除去し、ビルから暖気を放出するソーラーチムニーも設計した。彼女のソーラーチムニーは、ニューヨークの数万棟のビルから出る二酸化炭素の80〜90%を捕捉する。カーボンブラックは鉛筆に加工できる。

だがジェレミジェンコの最も遠大なプロジェクトは、都市農業である。食物を都市で栽培できれば、輸送コストがかからず、鮮度も落ちない。ビルの屋上は家庭菜園に理想的だが、ほとんどの建物の屋根は、何トンもの土の重みに耐えられないため、ジェレミジェンコは軽量のスティールと重合膜でできたポッドを考案した。宇宙船のような形状のポッドのなかでは霧と照明で水耕栽培ができ、ポッドについている脚が重みをビルの骨組みに逃がすという独創的なアイデアだ。配管の設計も実に巧みで、ビルの冷暖房効果があり、廃水は植物の水やりに使える。新鮮な果物と野菜を市民に供給し、大量のエネルギーを節約できる銀色の幼虫のようなポッドがニューヨークのスカイラインを賑わす日が来るのも夢ではない。

独創的なエンジニアにして、「オルタナティブアート界のスター」なる異名をとるジェレミジェンコは、アートとテクノロジー、天然物と人工物の従来の境界線を横断している。彼女は、「我々がそのなかに存在し、それと交流する場」として自然を見ている。「都会のさまざまな構造物は自然の一部をなすと同時に、それら自体も自然のシステムとして機能」しているのである。彼女は自分の仕事を環境問題に対する答えではなく、刺激的な問いかけだと考えている。「海中のあのチューブは何か? 屋上でキラキラと輝いているあのポッドは何か? 市内の消火栓という消火栓のまわりにゼラニウムが植えられているのはなぜか?」と人々にクイズを出し、個々人にできることを考えさせたいのだ。都会の風景に第3の案を点在させるナタリー・ジェレミジェンコは、類まれなプロのシナジストである。